「がんばる」についての一アメリカ人の考察 by Tom

Tom (日本語訳) 

 日本人は「がんばる」というのはどういうことか、よくわかっていると思います。ロジャー・デーヴィスと池野修が書いた“The Japanese Mind”という本の中で、「がんばる」というのは、ひたすらベストを尽くす性質のことだと述べられています。三省堂の日本語辞書には、三つの意味が載っていて、1.一所懸命、忍耐強く努める、2.自分の意見を強く押し通す、3.ある場所を占めて動こうとしない、となっています。

  三省堂の第一の定義からすると、これは、西洋のユダヤ系キリスト教の価値観と非常によく似ています。つまり清教徒の労働倫理です。清教徒の労働倫理というのを私なりに解釈すると、自分自身や家族のために、不平不満を言わず一所懸命働くということです。「がんばる」というのは、これとまったく同じ意味だとも言えますが、しかし、前述の定義に歴史的文化的背景が加わって、さらに深い意味になったというのが、後ほどおわかりいただけるでしょう。

 日本文化と西洋文化には多くの類似点がありますが、ユダヤ系キリスト教の家父長制度と日本の神道や仏教の家父長制度を、それぞれ明確に定義する根本的な違いがあると思います。この違いは、文化の起源、すなわち、現代の日本とアメリカのルーツに由来するものです。

 この違いを十分に探ろうとすると、このエッセイの範囲を超えてしまいますが、オクラホマで育った私は、特別な主観的レンズを通して日本文化を見ることができます。日本でいう「がんばる」の目標は、昔から地域社会、会社、国家レベルの発展のためにあると言っても過言ではありません。社会で協力し合う体制は、産業化する前の日本で稲作に必要とされた労働集約型の地域協力が、深く根付いたものです。確実に収穫するために、短期間に一所懸命働かなければならなかったのです。

 一方オクラホマでは、人々の労働倫理は、おそらく開拓時代の文化に特有の個人主義に深く根ざしたものです。私の先祖たちは、一人で未知の場所へと赴き、地域社会に属することもなく、己の強さと抜け目なさを友としていました。言い換えれば、この労働倫理は、自分の中にある幸福感に根ざしており、他人は二の次なのです。しかし、古き良き日本はその逆のようです。この話の真偽の程はさておくとしても、絶え間なく変わり行く東西の文化と、その人々の間で頻繁に起こるミスコミュニケーションの面白い見方を教えてくれるかもしれません。それでは次回まで、頑張って!

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3つ目の文化で板挟み by Jewel

Jewel

(日本語訳)

私は出身について聞かれると、いつも困ってしまいます。パスポート上では私は日本人ですが、今まで15回以上も引っ越ししているし、ピンポン玉のように日本とアメリカを行ったり来たりしているからです。自分は日本人でもアメリカ人でもないと感じるのです。どちらでもなく漂流者です。幸運にも私は神戸にあるインターナショナルハイスクールに通っていました。そこに通うほとんどの生徒が私のように複数の言語を話せたり、多種文化を併せ持つ世界中を飛び回っている子たちでした。私の高校では、みんなTCK―つまり『Third Culture Kids=第3文化キッズ』でした。

 第3文化キッズというのは、1つ以上の文化を人生の中で経験している子供たちのことです。TCKは2つ以上の文化を合わせて、自分たち独自の文化、第3番目の文化を作り上げるのです。例えば学校の寮で、私は朝食を洋風にするか和風にするか決められないので、両方食べます!私の『第3文化の朝食』はシロップたっぷりのパンケーキと納豆かけごはんです。食事だけではありません。TCKはみんな言葉も混ぜ合わせます。私と友人は『ジャパングリッシュ』(日本語+英語)でおしゃべりするのが大好きです。私のスウェーデン人の友人はスウェーデン語、日本語、英語を話します(スウェディジャパングリッシュ?)でも、本当にすごいタイ人の友人は英語、タイ語、日本語、広東語、そしてマンダリンを話すのです!

 でも、第三文化キッズには良くないこともあります。私たちのほとんどが生まれてからずっと地球中を飛び回ってきたので、『故郷』と呼べる場所を持っていません。みんな大人になった今、TCKの友人の多くは腰を落ち着かせる場所を見つけるのに苦労しています。私はどうかって?私は今松山で楽しく過ごしていますが、ゆくゆくはやっぱり落ち着かなくなって、また自分の場所を求めて彷徨う様な気がします…他の友人たちのようにね。

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アダムのつぶやき by Adam

Adam_2 (日本語訳)

“ノートン”の木が風の中できらめき、目の前で銀や青に光り輝き踊っている。太陽が沈み始める頃、空は黄橙から霞がかった赤へと変わっていく。“リート”は草原を走り抜けて、巣穴に身を隠す。太陽がついに地平線の下にもぐりこんだ頃、ぼくの友達は起き上がり、“プランボ”の缶をぼくに手渡し踊り始める。もうそろそろ帰る時間だ。“ヤーム”に乗り込み、苔むした岩を越え、文明世界へ飛んで帰るのだ。

ドアのベルが鳴り、ぼくは立ち上がってドアを開ける。小包だ。配達人に手を振って見送り、冷たく湿ってどんよりとした空気の中、数分間ぼくは立っている。それからぼくは、コンピューターのスクリーンの中の3Dバーチャルの世界にふたたび戻って行く。7歳の頃からコンピューターゲームをやっているが、進歩の速さには目を見張るばかりだ。この30年間で、コンピューターとビデオゲーム(と技術)は、指数関数的に力を伸ばしてきた。四角いブロックが次々とまた四角いブロックを追いかけるゲームから、プレーヤーが独自の経済や政府を運営するような、ほぼ完璧な三次元世界のゲームまでさまざまだ。

ぼくは大いに興味がある。これからの30年で何ができるようになるだろう。ゲームの中で、見たり聞いたりするだけでなく、触ったり、匂いを嗅いだり、味わったりすることができるようになるだろうか?ひょっとして、ぼくたちはもう既に映画のマトリックスのような仮想現実の中に生きているのか?ゲームの中のそのゲームの中の、そのまたゲームの中のゲームで遊んでいるのか? さてそろそろコーヒの時間だ。いや、バーチャルコーヒーか?

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